2012年4月
僧帽弁閉鎖不全症(僧帽弁形成術 ダビンチ)S.H様
私の妻(52歳)の僧帽弁閉鎖不全症は、今から15年前の37歳のときに人間ドックで見つかり、以後、地元である東京のT病院で毎年検査を受けていたのですが、今年の検査で「逆流の度合いが進んでいるのでなるべく早いうちに手術をした方がいい」と勧められました。
特に自覚症状もなかったので、手術を必要するほど悪化しているとは思っておらず、また、心臓弁膜症の手術はリスクも高く身体への負担を大きいようなので、妻も私も動揺しました。
妻の父親は 5人の子供を残し38歳のときに心臓弁膜症による心不全のため亡くなっています。よって妻の母親にとっては心臓弁膜症が辛い思い出となっており、また、高齢(87歳)なので、心臓弁膜症の手術が必要だと言い出すことはできませんでした。
私もこの歳(54歳)になり、子育てを終えてみる(長女25歳・長男23歳)と、妻の父親が、自分は弁膜症と判っていながら、いろいろな事情で為す術もなく、まだ幼い5人の子を残して38歳の若さで命を奪われたことは、さぞかし無念であっただろうと思います。
それ故、私は、同じ弁膜症で妻の命を危険にさらすことはできない、亡き義父の無念の思いとそして高齢な義母の思いを考えると、絶対に妻の命を守らなければならないと思いました。
ところが、毎年検査を受けていたT病院の勧めで某大学病院に行ってみると、担当医(助教)の先生からは「手術は胸の真中を開く正中切開で行い、傷口が小さな低浸潤ではできない。また、自分の弁を形成できるのか、人工弁に置き換えるのかは実際に手術をやってみて、その場でないとわからない。」との説明を受けました。 私としてはリスクの軽減方法や弁形成できる確率などについて、いろいろお尋ねしたいこともあったのですが、執刀医の先生(教授)とは、手術の前日までお会いできないような感じでした。
患者という立場からすると「権威のある大学病院で手術をして頂く」ということは、そういうことが当り前なのではないか、いまさら紹介状もなく、過去の検査データも手元になく、他の病院を一から探すことができるのか、時間的に余裕があるのか、どこの病院に行けばいいのかなど、半ばあきらめに近い気持ちもありました。
しかし、亡き義父と義母の思いを考えると、手術のリスクは絶対に避けなければならない、かけがえのない妻をなくすことはできない、できれば人工弁による術後の制約から妻を解放したいという思いが強く、また、そこを何とかするのが家族を守る自分の役目だと思い、何の知識もないまま、手当り次第に本を読み、インターネットを検索し、いろいろな病院を調べました。そしてある日、渡邊先生のホームページにたどり着くことができ、渡邊先生なら大丈夫かもしれないと、まさに藁にもすがる思いでコンタクトを取らせて頂いたのです。
1月26日(木)の午後7時過ぎに、渡邊先生のホームページに妻の症状を入力してみたものの、きっとスタッフの方がご覧になりお返事を頂けるのに1〜2週間かかると思っていたので、わずか2時間後の当日の午後9時に、渡邊先生から直接メールでお返事を頂いたときには正直とても驚きました。また、そのメールの中で東京の国際医療福祉大学三田病院のコーディネーター川口真奈さんをご紹介頂き、川口さんの素早い対応で、翌朝1月27日(金)の午前10時半には、三田病院での2月9日(木)のエコー検査予約が完了しました。ホームページに入力して一晩で、わずか15時間半で、具体的に一歩前進し始めたことに、大きな感動と小さな安堵感を覚えました。
2月9日(木)に三田病院へ検査に行った際には、本当に渡邊先生に手術をして頂くことができるのか、不安と迷いで一杯だったのですが、コーディネーターの川口真奈さんと実際にお会いして話してみると、心臓手術は命を預かっているという真摯な対応の中にも親身さが感じられ、また癒し系のお人柄なので、不安な気持ちも徐々に薄れ始めました。
川口さんを採用面接で直接お選びになったのは渡邊先生とお聞きし、またTeam Watanabeのフロントに川口さんのような方を配していらっしゃることを考えると、渡邊先生にはまだ直接お会いしたことはありませんでしたが、なんとなく渡邊先生のお人柄が投影されているような気がして、大丈夫かもしれない、金沢で渡邊先生に本当に手術して頂くことが実現するかもしれないと思えるようになりました。
東京から見れば金沢は遠い所です。また、神の手と称される渡邊先生は、私たちから見れば雲の上の人でもっと遠い存在です。途中であきらめることなく、金沢に行こうと思えたのは、川口さんの対応の中に、金沢の距離の遠さと渡邊先生の存在の遠さを埋める「何か暖かいもの」を感じることができたからだと思います。川口さん!ありがとう・・・感謝しています。
そして2月26日(日)に休日であったにもかかわらず、東京の自由が丘クリニックで渡邊先生に面談して頂くことができ、症状や手術方法・費用などについて詳しい説明を受けました。費用面の問題はありましたが、私たちはダビンチでの手術を希望しました。そして渡邊先生からは「わかりました。4月中旬に金沢で弁形成の手術をしましょう。」と言って頂きました。思えば1月26日に渡邊先生のホームページに入力して1ヶ月で、夢と思っていたことが現実となり、喜びと安堵感で一杯になりました。
手術日は4月18日(水)午前8:30からと決定し、手術当日の朝を迎えました。手術というとテレビでのシーンをイメージしていたので、8:30にストレッチャーが来て、家族に手を握られながら手術室に向かうと思っていたのですが、実際は看護婦さんが一人で迎えに来て、本人が歩いて手術室に行ったのでちょっと拍子抜けしました。
でも、手術室の自動扉が開いた瞬間、手術に携わる十数名の看護婦さんがブルーの制服で整然と2列に並び出迎えて頂いてるのを見たとき、プロとしてチームとして、これから手術に立ち向かうという心意気を感じることができ、手術への不安感も薄れ頼もしく思いました。
実際の手術で心臓を開けてみると、術前のエコー検査では全く判らなかったのですが、妻の心臓は「僧帽弁の前尖が裂けている」状態になっていました。予想外の事態でしたが、渡邊先生には、その場で、急遽、前尖の裂けている部分を補修することに加えて、弁を支える腱策の切れている部分も補修するというご判断をして頂き、非常に難しい手術であったにもかかわらず、まさに神の手で弁形成をして頂きました。結果的に人工弁を入れることなく手術を無事に終えることができたのは、渡邊先生のおかげと深く感謝致しております。もし他の病院で手術をしていたら、人工弁になっていたのではないかと思います。本当にありがとうございました。
手術のあと、4月23日(月)の午前9時過ぎに渡邊先生の回診があり「よかったね」と声をかけて頂き肩をたたいてもらった、と妻よりうれしそうなメールが届きました。でも、月曜日って手術日ですよね。手術を受ける患者さんはもう手術室に入っているはずなのに渡邊先生の回診???。
このとき渡邊先生がTeam Watanebeとおっしゃっている意味が少しわかったような気がしました。渡邊先生が手術室にいらっしゃらなくても手術の準備が粛々と進み、安心して任せられるスタッフがいる、そういう体制・組織・チーム・スタッフ・スキル・マインドを渡邊先生がTeam Watanabeとして造り上げていらっしゃることに、私は一介のサラリーマンに過ぎませんが、組織で働く者として深い感銘を受けました。
渡邊先生に手術して頂くということは、渡邊先生の神の手にプラスして、先生がお造りになられたTeam Watanebeのスタッフのみなさんの質の高い医療を受けられることなんだ、と改めて感じた次第です。
妻は今回のダビンチ手術について、経済的な面で非常に心配していましたが、経済的な面を何とかするのは私の役目であり、結果として、難しい手術であったにも拘わらず弁形成ができたこと、術後の身体への負担が軽く回復が早いことなどを考えると、やはりダビンチで手術して、本当によかったと思っています。
妻は結婚以来二十数年の亘り私の両親と同居し、数年前に私の両親が癌(母:肝臓癌・父:肺癌)となった際も、会社勤めで時間的に制約のある私に代わって献身的に介護し、最期を看取ってくれました。これで少しは妻に恩返しができたかもしれません。再び元気になった妻の顔を見ることができ、また若くして弁膜症による心不全で亡くなった義父の墓前と、心配でオロオロしていた義母に、手術が無事に終わったことを報告できたことは、私にとってこの上ない喜びです。
早いもので手術が終わって1ヶ月経ちました。手術前にあんなに心を悩ませていた不安や迷いは過去のものとなり、今は、身体も順調に回復し、穏やかで落着いた時間がゆっくりゆっくりと流れています。私たちが、こうして穏やかな時間を過ごせるようになり、安らぎのある生活に戻れたのは、渡邊先生を始め、金沢大学附属病院の山口先生・新谷先生・若林先生・伴さん、北陸病院の鷹合先生、三田病院の牛島先生・川口さん、そして検査や入院・手術でお世話になった看護師の皆さま、Team Watanabeの皆さまのおかげです。
この感謝の気持ちをうまく言葉にするのは難しいのですが、心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
S.H.